さて、突然ではあるが画面の前の読者の皆様に一つお聞きしてみたい。まずは一作品、ポストアポカリプス系の作品を想起してみてもらいたい。その作品の中で、何故作中で世界は崩壊してしまっていただろうか。一体、何故。世界は終わりを告げてしまっていただろうか。
状況の始まりは様々な例があるであろう。だが、忘れてはいけない事が一つある。そのような作品の事例が示す通り、世界というものは一歩間違えれば簡単に壊れてしまうような儚いものかもしれないのである。我々が今生きている世界も、何かのボタンの掛け違えで急に終わりを告げかねないものなのかもしれない、という事を。
では、「世界の終わり」とサブタイトルに関するこの作品の世界は何故終わってしまったのか。その答えは単純にして簡潔。ただ、世界に雨が降らなくなってしまったからである。
たったそれだけで、と言いたい読者の皆様、ちょっと考えてみてほしい。水と言うものは雨となり降り注ぎ川となり、海へと流れ込む事で循環するものである。その循環がもし断たれてしまったらどうなるのか。
答えは言うまでもないだろう。海は干上がり、水を必要とするものが全て滅び人々の心は荒み、文明は崩壊し。数百年の荒廃の後、世界は僅かに残った地下水を頼りに生活する世紀末となっていた。
そんな世界をガソリンの必要が無い特別なトライクで旅する少女が一人。彼女の名はセレン(表紙)。「永遠の17歳」と名乗る吸血鬼の少女であり、一杯銀貨一枚で珈琲を提供する、流しのコーヒー屋を営む少女である。
永遠に続く命だからこそ、どこか他人事のように、俯瞰的に。黄昏の姿で人々に珈琲を振る舞い、宵闇の姿で人を狩る。気ままに一人、旅をする中。セレンは往く先々で人々の営みに触れ、人々の想いに触れていく。
爆音でロックをかけながしながら荒野を疾走する男がいた。
憎まれ阻害されようと、只一人を想う男がいた。
地図にない村、そこに住まう老人たちの想いに触れた。
我が子を想い心を揺らす両親を誑かした、二人組の邪な思いがあった。
子供達を愛し、慈しむシスターがいた。
「ヒトってそういう『人情』とか『義理』とか、理屈に合わないことで動くもんでしょ。あたしは好きだな。そんな、理屈で割り切れない、ヒトの生き方」
清も濁も、光も闇も。理屈で割り切れぬヒトの生き方に触れ、時に人でなしな自分を自嘲しながらも人の営みに手を貸し。
「きのうはもう、修正はできない。あしたのことが、自分の思い通りになる、と考えることは傲慢だ。あたしたちは、ただひとつの『いま』の連なりを生き続けている。・・・・・・失望する? あたしは、そんなことしやしない。だって・・・・・・」
そして、さよならだけが人生だと言わんばかりに大切なものを手に。気がつけば、また旅の途中。当てもなくまた、旅に出る。
そんな、どこか寂寥感がある中に親愛の温かさがあるのがこの作品である。
ロードムービー的な作品が好きな読者様は是非。
きっと貴方も満足できるはずである。
死なないセレンの昼と夜 ―世界の終わり、旅する吸血鬼― (電撃文庫) | 早見 慎司, 尾崎 ドミノ |本 | 通販 | Amazon