シュレディンガーの猫、それは観測に関する不可思議な仮説。では神秘という謎は推理という観測をされることにより、只の謎へと貶められるとは関係ないだろうか。
さて、ガガガ文庫の編集長が直々に担当したいと申し出た、ラノベの自由さを体現したという能書きであるこの作品は一体どんな作品であるのか。
まるで未来を見るかのような不思議な景色を時折見る妹、弥生を持つ探偵嫌いの主人公、令和。妹が巻き込まれた謎を解き明かすべく訪れたとある探偵事務所。しかしそこにいたのは探偵ではなく、自らを魔女と名乗る謎の少女、焔螺(表紙)だったのである。
そう、探偵ではない。魔女である。では魔女である彼女は一体どうするのか。彼女は謎を解決しない。それどころか謎に更なるこじつけと仮説を施し、更に舞台を引っ掻き回し謎を迷宮入りへと持ち込んで見せる。
何故そんな事をするのか? それは彼女が神秘を愛しているから。神秘は神秘のままでいいと肯定しているからである。
まるで探偵、ミステリといった推理もののジャンルに真っ向から喧嘩を売るかのように自らの理論を叩きつけ、謎を神秘へと改造してしまう彼女。
しかし、こうは考えられないだろうか?
確かに、推理という行為は謎を推理するという行動をする事により成立する。だが、解かなくていい謎だって確かにないだろうか。知る事で誰かに悲しみを齎す謎に隠された真実もあるし、解いたところで何も日常生活に影響のない謎の方が日常には溢れているかもしれない。そして、解き明かされるべき謎には探偵という存在は寧ろ不必要であるかもしれない。
そう考えると、探偵という存在に喧嘩を売り謎に味方し神秘で覆い隠すという彼女の行動は、ある種の正義でありトリックスターと言える可能性がある。
「今回のミステリーはこれにて―――迷宮入りだ」
この作品は言うなれば魔女が探偵小説をその心のままに蹂躙するお話であり、探偵と丁々発止のやり取りを繰り広げるお話であり、推理小説へのアンチテーゼである。
だがしかし、この作品はどこまでも自由である。だからこそ登場人物の誰もが魅力溢れる若さとエネルギーに満ちた、正にこれから名前がついていくであろう新感覚の面白さがあるのも確かである。
だから、画面の前の読者の皆様。
どうかこの作品の頁を開き、魔女へと挑んでみてほしい。
魔女との戦いの先、そこに見たことのない面白さが待っているはずである。